愛を読むひと
邦題の失敗
デビット・クロスという美しい青年と、ケイト・ウィンスレットの映画宣伝と題名を見て、楽しみにやってきた客層とは大きくかけ離れた作品だった。私も邦題や映画宣伝では観たい映画ではなかった。
ここからは、ネタばれになります。
この映画には多くの問いかけがなされている。
戦後10年程度のドイツに、日本とは違い全く今と変わらないものを感じること、ドイツ国民が多くの事柄を赤裸々にしていない事への恥ずかしい感情は日本には無いのかと言うこと、その時の法律にかなっていることを違う時代の法律でさばくと言うこと、仕事がなければ生活のためにどんな仕事をしてもいいのかと言うこと、仕事をすることと人間性を保つことの優先順位、ユダヤ人の能力が高く、自分の罪が重くなっても文盲と言うことが恥だと思う戦争当時のドイツ人とユダヤ人の関係、ユダヤ人に対する行為はどのような親切であっても「親切」なのか、個人の罪は贖うことは出来ないのか、このような題名を付けることを恥ずかしいと思わなかった日本人は恥ずかしい
あまりにも深いテーマな為に、一つ一つの言葉が重く主人公のように悩まされる。無かったことには出来ない十字架を背負っている。しかし、近代に入る前や、中世に入る前と歴史を振り返ると、人間の憶測に潜んでいるものではないかと考えてしまう。情報が発達した現在じゃなければ、それは無かったことや単なる教科書の歴史に終わったことなのかもしれない。それを向き合っていくこの先の未来も被害者遺族達は忘れない。同じように日本の被害者遺族達も。個人に罪を贖わせても、少しでも解消されるものではない。どんな優しさも親切も巨大な罪の前では何者でもない。しかし、看守になることも、ヒトラーの秘書になることも、アウシュビッツの中で捕らわれることも誰もが可能性を秘めている時代だったのだ。個人が罪を償ったぐらいでは打ち消すことは出来ないのだ。そして、ユダヤ人が600万死んだとしても、たった一人だったとしても、悪いことに変わりないのだ。ダメなこと間違っていること、それは日本軍が大虐殺しても一人を殺しても同じだと言うこと。いつからの戦争から責任を問われるのか、やってきたこと過去はずっと引き継ぐことになる。戦後60年以上経っても、100年経っても、終わりなど無い。
以前見たナチの裁判の記録映画で、職務を全うした男が職務を全うしたことに対しては誇りを持っているようだった。ハンナが裁判で言った言葉も間違っていない。その時のナチス法学では認められたことなのだ。それを感じ取らすために、ブルーノ・ガンツの大学教授があえて、その時代で起こったことはその時代の法学で裁かれなければならないようなセリフを吐かせるのだ。そんなわけはないだろう。独裁者が作った法律で多くの人間が死ぬことはドイツ以外でも多くあった。倫理観が変化したとしても、裁かれないと世の中はいい方向に変わらない。しかし、年老いた大学教授は、戦争を生き、その時の法学を生きていたのだ。彼の護衛のために発した言葉でもあるのだ。
映画は淡々とすすむ。言葉も少ないために、考えさせられる時間が多かった。それだけ、重いテーマだったのだ。この映画にこの邦題を付けるのは、いくら何でも酷すぎる。ましてや、主人公は愛しい思いとは別に贖罪の気持ちがあった。ハンナ達の罪を戦争を知らない人達がまたその罪を償うということ、また、彼女に対する贖罪。
彼女のことを思って、アメリカに行った彼が、文盲だと告げるがそれは大したことないことをまた大きく主人公と共に観客は告げられる。
ドイツ人の作家がニューヨークで発表した作品がベストセラーになり、映画化。ユダヤ人が多く暮らすアメリカや時代を引きずるヨーロッパでは深く感じ取れただろう。監督はリトル・ダンサーで有名になったイギリス人監督。全編英語で、ミヒャエルもマイケルになっていた。イギリス人のケイト・ウィスレッドがうまい。青年時代を演じたデビッド・クロスが美しく、今後も楽しみだがドイツで活躍しているようで、あまりお目にかかれないかもしれない。レイフ・ファインズは素敵な男性だったのに、えらく老け込んだ感じだ。ちょっと残念。ブルーノ・ガンツは今回も彼だと気が付かなかった。彼が出た作品は結構観ているのにもかかわらず、私はいつも分からない。年をいった方のユダヤ人の小説家を演じた女優さんも素敵だった。
設定の年もドイツが舞台だと言うことも映画がすすむまでこのような内容になると思い付かなかった。ちょっと、情けなかった。
さて、邦題であるが朗読者では映画館に足を運んでくれないだろう。苦肉の策で付けた邦題だと言うことはこの映画を観たら分かる。しかし、日本人の得意な原題とは全く違う題名が出なかったのだろうか?とても残念だ。








