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January 11, 2005

震災 あの日

 震災の1週間前は関西の恒例行事のように、関西系の報道番組は、震災のその後を映し出す。神戸にいるだけで震災がなぜか私の周りにあり、逆に神戸でも全く震災が周りにない人達とも接しているので、色んな複雑な気持ちも今でも抱いている。
 私のようになんでも忘れっぽい人間で、1年前に一緒だった同級生の名前もすぐに忘れるような今だけ生きてるような私でさえ、震災は鮮やかな記憶に残っている。別に大した被害もなかったのに。blogを立ち上げたときに。震災が近づいたら、震災の時にお世話になったり、心配してくれた人達に送った手紙をここに入れようって思っていたのに、そのデータがみつかんない。大したことを書いていないのに、その時送った人に、「これは子どもが大きくなったら見せてあげます。」なんてことを言われたので、その手紙のことはいまでも記憶に残っていたのに、どこに行ったんだろう。10年前だから、Windows3.1か95だなぁ。うーむ。

 あの日。
 突然の大きな揺れで目が覚めた。本当ならびっくりして立ち上がろうとしたかもしれないけれど、動物的な感で、頭を抱えてふとんに潜り込んだ。私の上に洋服ダンスと整理ダンスが降ってきた。家具での死亡者が多かったので、本当にラッキーだったといえる。治まってから布団から手を伸ばして最初に掴んだのは、照明器具のわっかだった。立ち上がって部屋の惨状を見て、ただごとではないと知り、服を着替えて、貴重品を持って、階下に降りたが、ドアが開かない。近所の人の声を聞きつけお願いして開けて貰う。開いたときにみたら、私が住んでいる借家の外壁が崩れ落ち被さってドアが開かなかったのだ。それを挨拶しかしたことがない近所の人達が取り除いてくれた。階下で別に住んでいる母親も無事だった。近所の人は全員外に出ていた。ガスの臭いがして、ガス栓が止められないって言うおばーちゃんの家に入り、食器棚や色んなものが倒れ込んだ台所によじ登ってガス栓を閉める。近所の人が全員無事なのが分かって、寒いので家にはいることに、ひとり暮らしの女の人が怖いというので、母の家に入って貰った。私はこれはただごとではないと思って、ちょっと出てくると言い、水を確保しに商店街に向かった。行くときの道にはぺしゃんこになった家が1つだけしか無くって、それも古い人の住んでいない家だったから、あんまり酷くないのかなぁって思っていた。やっぱり、人の考える事は一緒で、まだ暗いのに、酒屋さんに行ったら、水が売り切れていた。珈琲しか買えないので、私と母とひとり暮らしの人の3本だけにしておいた。そのまま、商店街はどうなってるんだろうと思い行ってみると、商店街を南から北に向かってみたら、アーケイドの中は火の海だった。なんか、えって、感じだった。どこかの神経がいかれているんだろう。なに、なんだろうって。そのまま違うルートで家に帰ろうとすると、違う通りでは、色んな所の家が2階の屋根が私のすぐ近くの高さになっていて、2階建てのアパートの近所の人がここに女の子と○○さんがいるねん。って、そのアパートの近所の叔母さんが泣き叫んでいる。2階の窓の当たりに乗って、瓦礫を取り始めたが、全然無理やん。その近所のおじさんがもう声せーへんなって大分経つというので、バラバラとその近所の人達は家に戻りはじめ、私も泣いているおばちゃんに警察とか消防が来ない限り、無理やろうと言って、家に帰った。今思えば、なんて人の死を軽んじた行為なんだろうと、あの時に諦めなかったら何人かは助かったかもしれないけれど、私じゃなくてもそんな事が出来るほどの落ち着いた精神状態の人はいなかったのだ。ただの言い訳だ。辛いことに目をつぶって考えないようにしたのだ。だから、このことは一生私に付いてくるのだ。家に帰って、母と挨拶しかしたことのないひとり暮らしの人に、冷めた珈琲を渡した。電気は早くに付いた。TVは信じられない光景を写していた。気が動転している母に職場に行くなと止める。家の片づけをするんやって、商店街や家が潰れた通りの話は出来なかった。でも、神戸は風が南向きに吹くから、商店街の火は南下してくる。消防が来るとは思えないけれど、TVで燃えさかる神戸の街を見ている二人には、消防が来るから、ヘリコプターで水まきに来るからって。何も考えずにはよ片づけよって。でも、だんだん、TVを切っていても北の空が黒くなってきているのが分かる。近所に住む会社の人が大丈夫かと訪れてくれた。私にはそんな余裕がない。午後から北区に住む会社の人が、おにぎりを作って持ってきてくれた。家も知らないのに探して来てくれたのだ。帰りも大変だっただろうけれど、ありがたかった。ひとり暮らしの人にも渡して、近所に住む友人T1の家におにぎりを持って行った。もう、このへん時間帯がよく覚えていないのだ。その日なのか、もしかして次の日におにぎりを持ってきてくれていたのか。片づけをすることに熱中するようにしていた。母より私の方が、おかしかったのかもしれない。商店街の火は南下しているだけで、消防車がいないかあたりを捜しまくったが、来ていない。このままでは、本当に家が焼けてしまうかもしれないと思い、夕方近所の保育園に毛布と貴重品とか服とかヴァイオリンを持って出かけた。行ってみると、階段に廊下に凄い人で、でも家にいる方が母は怖いというので、子供用の洗面台のPトラップの下が空いていたので、そこで母と二人で、くっついて寝た。
 次の日、婦人会の人達がお米とか持ち寄っておにぎりを作ってくれていた。私は瓦礫で手が傷だらけだったから、夜に車で差し入れしてくれたって品物を配ったり、トイレが水が出ないので、そっちの方の手伝いをしてから、母に黙って、母の働いているところを見に行った。たまに「わかば」で出てくるあたりだ。凄かった。戦時中の焼け野原はこうだろうと思った。電線が垂れ下がり、違う世界だった。母が働いていたところは跡形もないぐらいに焼けていた。このあたりも地震で家々が倒壊し、その後火がやってきた。火が来るからと逃げ出せなかった人を必死で助け出そうとする家族に、もう危ないからやめろという瓦礫の中からの声。そんな震災を体験しているところだ。私の家までは火事は来なかった。でも、2日目になっても、火事はおさまっていなかった。私は、家の近所で海岸から海水を汲み上げる兵庫県北部の消防車を見て、隊員の人に有り難うって言って泣いてしまった。
 それから、水もガスの復旧も大分かかり日々の生活は大変だった。ガスは4月までこなかった。友人T1が会社の人が持ってきてくれたと言って、2つあるからと渡してくれたカセットコンロで助かった。自分の所も家族が多いのに一つでは足りないくせに、くれたのだ。垂水から歩いて安否を確かめてくれた人もいた。私の会社では、私の机の所に重いキャビネットが落ちていた。会社にいたら一瞬で天国だったかもしれない。会社の帰りに冷蔵庫がダメになったからとたたき売りしている市場で鍋材料を買い、ひとり暮らしのひとと3人で食べた。余震は続くので、夜は保育園でやすんだ。あの日からみんな親切になったような気がする。会社の人は、いつも水を貰うためようのペットボトルを自転車の後部にくくりつけていたのが、お医者さんから戻って自転車に行ったら、全部のボトルに水が入っていたそうだ。給水車がそのあたりに来ていて、気が付いた人が入れてくれたのだろう。私の近所は、挨拶だけではなくなって、これあげよっておかずを貰ったり、パンを貰ったり、あんた、サバイバルに強いなぁ頼りになるわって、褒めて貰った。
 それ以後、色々あったのだが、一番ショックなのは、同じ神戸でも播磨の方や西区や北区の人は全然違う感覚を持っているって事だった。被災したって私の場合は大したことはないのだけれど、お風呂に行くのに、水が供給されているお風呂やさんを訪ねて、兵庫区から須磨区に行きまくったり、電車のろうにも、新長田駅は被害を受けているので、鷹取駅に、それも入る方向が鷹取工場のあたりだし、電信柱に電気はないしで、夜もおちおち出かけられないのだ。でも、他の所に住んでいる人達は、スキーに行ったり、三宮に遊びに行ったりって。近くにいるのに状況が違うことに唖然としてしまった。いまでも、友人が「絶対わかれへん」という気持ちは、私も分かる。色んな人達が炊き出しや給水やでやってきてくれた。まだ忘れてないよって、サリンの事件で神戸の報道はなくなっていても、気にしてくれている人達がいることも有り難かった。
 震災後は、今回の津波のような被害にも何にも感じなくなってる。震災前に北海道の地震の被害に大変だと思っていたような気持ちは全然起こらなくなった。元々、冷たい人間だけれど、そんなこともあらーなってことかも。
 だから、いつまでも震災なんて言っててもダメなんだって。で、本当は一番こだわっているのかもしれない。

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Comments

あのころテレビがなかったので、職場ですごく大きな地震が関西であったという話を聞いても、全然信じられませんでした。その後のニュースでの火災の映像。言葉にすると軽くなりますが、本当に驚きました。そんな神戸に住むことになるとは、まったく思ってもいませんでした。

書かれているようにこちらに来て驚いたのは、場所による被害の程度が全然違うということ。長田区のように火災もあってものすごい被害を受けたところから、西区の方から聞いたなんともなかったという話。同じ神戸市でも場所によって被害の大きさが全然違うということに驚きました。

Posted by: noki | January 12, 2005 at 01:47 AM

コメント有り難うございます。
神戸市民が全員同じ思いをもてっては思わないのですが、差が大きすぎてショックでした。
東灘区の友人は、住んでいる付近が、LPGガス汚染かなんかで避難させられたり、家屋倒壊で助け出されたときには夕方でした。
灘区の友人は、両親が倒壊家屋で亡くなりました。
兵庫区の友人は、倒壊した斜めになった部屋からやっとの思いで外に出て、妹の住んでいる所に無事かを確認して戻ったら、斜めになった部屋から、金目のものが盗まれていました。
須磨区の友人は、電気水道ガスが長いこと止まっていました。
西区の友人は、その日北からのルートでスキーに出かけました。
 でも、被災地域でなくても、神戸市他ガスの供給がストップし、食事や暖がとれなかったし、働いているところが火災にあったり、倒産したり、交通機関は長いこと使えなかったりしていたし、色んな事で不自由していたのは一緒ですよね。
 

Posted by: 海音 | January 12, 2005 at 09:07 AM

こんにちは。
こめんとありがとうございました。
こちらは昭和58年の地震被災地域ですが、地震の被害はさほどでもありませでした。
それよりも、学校などで、「 日本海に津浪はない。」と広く、教えられていましたので、そのショックが大きかったようです。

記事を読ませて頂き、都市型の直下型地震の凄まじさを映像で見るよりも、かなりひしひしと感じました。

火の手が迫り、家族を助けられなかった方々のことを思うと、涙が出ます。痛ましいです。
こうした教訓を生かして、被災地には、消防、各種救援隊、防災ヘリコプターなどが、すぐに被災地に乗り込めるようスタンバイさせておくプログラムが、絶対に必要と思いました。

Posted by: U-1 (YUICHI) | January 23, 2005 at 11:15 AM

 コメント有り難うございます。被災した地域で行われた活動が今後にも役立てることが、色んな災害を経験してきた人達の本望だと思います。昨年の地震もその教訓が生かされて、素早い対応でした。神戸市民は神戸は地震が少ないと勝手に思いこんでいたので、こんなに大きな被害になってしまっていたのだろうと思います。予測出来ないことを防いでいくことは難しいですが、備えあれば憂いなしですね。今でも枕元に懐中電灯がひとりに一つあります。なんせ、逃げ出せれば何とかなるので。

Posted by: 海音 | January 23, 2005 at 11:46 AM

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