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March 12, 2005

源平合戦の道を歩く②

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 今日は長田区主催の「長田区源平歴史ウォーク~駒ヶ林いかなご散策~」にT1と参加した。神戸市には兵庫・北・長田・須磨区に渡って、源平合戦の名所がある。今回は、高速長田に近い長田区役所をスタートに歩き回った。区役所から北に村野工業という昔甲子園の土を踏んでいた学校があるのだが、その校門前に、監物(けんぶつ)太郎の碑がある。清盛の子平知盛・知章親子を守るために戦った監物太郎が祀られている。大河ドラマの中では、平知盛の役を阿部寛がしている。05_03_12kenbutu05_03_12tomoaki_haka そこから、新湊川の方に行くと、知章の墓が、道路のの拡幅工事のために移動してきている。この辺りで、源氏の木村源吾重章と相打ちになり、同じ場所で仲良く祀られている。ここを北に上がると長田神社があり、この辺りで神攻皇后が船を着けたところとして、御船山旧跡の碑が建っている。中央幹線を西に板宿方面に歩き、山麓線を少し上がると、平盛俊の墓がある。上記の系図に名前がないのは、清盛の側近平盛国の子であるからだ。普段は、開いていないので特別公開と言うことらしい。05_03_12moritosi_haka
05_03_12kusunoki 板宿から南東に行くと西代の楠と言われるご神木がある。よくTVなどで道路拡張よりも木を大事にってので良く取り上げられた木である。天保年間に庄屋がこの木の幹に斧を打ち込んだことで、西代村では頻繁に火事がおこったという言い伝えがあり、この木が残ることになった。高さ12m周りは5mある。ここから、更に南東に進むとJR新長田駅北側のシューズプラザが出てくる。ここは、かつて靴工場が多かったところで、震災時に火事がおこり、今なお空き地が多い。1,2階に靴屋さんがあり、4階には神戸アジア交流プラザがある。ここでは、あのまるっこい字のビルマ語やインドネシア語やモンゴル語などが勉強出来る。たまに面白い講習をしている。この辺りを歩いていたら、民家からご詠歌が聞こえた。以前に大阪出身のT2がご詠歌なんて田舎しかしないと思っていたと言っていたが、私の近くでも聞こえたりする。昔ながらの下町だからだろう。父親が亡くなったときも、たまに近所の人がきてくれて、一緒にご詠歌あげてくれた。05_03_12asia
05_03_12ryuukyuu JR新長田駅を越え2号線近くまで下ると、昨年出来た琉球ワールドがある。2階には体験出来る所がある。さんぴん茶を貰い、泡盛の試飲もさせて貰う。たまに、無料演奏会をしているので、もっとお知らせを出してくれていたらいいのにとよく思う。沖縄の人はこの辺りは少ないが、兵庫区には住んでいる人が多い。長田は奄美や徳之島の人が多い。昔東京にお嫁に行ってしまった大阪の友人が、琉球舞踊を習っていたので、新大阪で働いていたときに、会社帰りに大正区のホールでの沖縄のイベントを見に行ったことがあった。沖縄の人が多い大正区だから、音楽が入ると観客席も踊りまくる。もちろん私たちも踊りまくった。最近の人は音楽が入ってもすぐに踊り出せないので、沖縄が流行っているうちに踊れるようになって欲しい(笑)。昔、神戸市の成人式のお手伝いに友人Mと参加して、めちゃくちゃ有名ではなかったけれどのりのりのバンドだったのに、だーれも踊っていなくって、友人Mと二人で踊っていたら、のりが悪い成人式の対象者に怒ったボーカルが、「スタッフのおまえらだけ踊ってどうする!」とマイク越しで言われた。本当にのりが悪い若者が増産されている。特に神戸市民はお行儀良すぎて(笑)、のりがめちゃくちゃ悪いのだ。踊れよー。
05_03_12manpuku105_03_12manpuku4 琉球ワールドから西に進むと、通称亀の子寺と言われている満福寺がある。ここは、清盛の創建という言い伝えがあり、JR鷹取にやや近いこの辺りに「字福原」の地がある。清盛が厳島神社の参詣をこの辺りの西国街道でおりて、陸路で向かったと伝えられており、昔は福原と呼ばれていたので、福原荘の発祥地とも謂われている。
05_03_12douduka 満福寺を南に進むと清盛の末の弟忠度(ただのり)の胴塚(首塚)があります。先に腕を切られて、この地で首を切られました。最初の写真の系図はここにある。
05_03_12udeduka 胴塚から南東に進むと切り落とされた腕を祀る腕塚がある。ここは、かなり入り組んだところにある。駒ヶ林の昔ながらの路地がまだ残っている界隈なので、それも楽しむことができる。胴塚の地名は無いが、腕塚の地名は残っている。実際あるところは駒ヶ林だが、ここは駒ヶ林村として古くから地図に載っているところだったので、ここに付けずに2号線を沿ったところに付けられている。ここを海側に出て、東に進むと駒林神社がある。ここは厄除け神社だ。ここで、スタンプが最後になり、長田港に向かう。長田港では、いかなごのお吸い物を頂戴したのだが、寒い体が芯から温まり、いかなごでだしを取ったのかめちゃくちゃ美味しかった。もういっぱいと言いたいぐらいだった。面白いことに各名所に係の人がいたのだが、胴塚のある駒ヶ林の辺りになると、道案内がちゃんと立っていて、揃いのぱっぴで頑張ってくれていた。同じ長田区でも自治が地域でこれほど違うのだと感心させて貰った。
05_03_05komagabayashi05_03_12shibata T1と志ば多のお好み焼きを食べに行く途中、子どもの時から通って大人になったときも滑り台を占領して本を読んでいた公園が様変わりしていたのを知った。がーん(T_T)。大きい滑り台も私の読書用も無くなって、小さな遊具が少しだけになっていた。ショック。写真撮っておけば良かった(。>_<。)。T1お奨めのお好み焼き店で、かきそばモダン焼きを食べる。美味しかった!
05_03_12pinokio105_03_12pinokio2 帰りに本町商店街を下るとロボットの店を発見。怪しい~。怪しすぎる。この衣装はなんなんだぁー。

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Comments

神戸の都心部にあっても漁村の伝統を伝える駒ヶ林。地域のきづなや、歴史を未来に伝えたいですね。
海泉禅寺
 臨済宗 南禅寺派。 
文永三年(1266)この村の宝満寺が覚心禅師の教化で密教から
禅宗に改められ、大いに栄えてからのち、この村に海泉寺は宝珠庵、慈眼庵、松月庵、松源庵、とともに建てられ、宝満寺の子坊となつた。のちに宝満寺は禅昌寺の末寺となり、更に本山直寺となつた。 慈眼、松月、松源、の三庵は明治初年に、村の経済の都合で廃寺となつた。のこつた宝珠庵は「さつき寺」ともいわれ、一株のサツキが庭一面に枝をはり、花時には賑わう名所となつていた。が先の阪神大震災で壊れ、現在建築工事準備中。
宝珠寺は長田北交差点のひがしきたがわにある。
海泉寺は寺伝では、正和二年(1313)の創建、もと長田港の西方にあったが、明治七年火災に遭い現在地にあった慈眼庵に移って海泉寺とした。大正十二年に駒ガ林町にあった阿弥陀堂の木材を本堂に利用した。このとき発見した阿弥陀堂の棟札には文化十二年(1815)建立とあった。
此の堂にまつられていた阿弥陀三尊仏がいまの海泉寺の本尊である。この阿弥陀堂が往古駒ヶ林でざこね堂〔雑魚寝堂〕としたしまれたお堂といわれる。
●追記 雑魚寝堂というのがあるが寺ではない。〔村の阿弥陀堂でその後移転〕同村の未婚の男女が
毎年節分の夜にここに集まり籠るので、雑魚寝堂と称したのに
始まる。その夜に契った男女は夫婦となる掟であるが、いかに
神の結ぶ縁とは言え、若い男が年老いた女を、年老いた男が若
い女を妻とするのは世の慣わしに背くというので廃止されてしま
ったが、今でも節分の夜だけは、古い名残を留めて、女ばかりが
籠ることになっている。こうすると安産だと言われている。
また神戸又新日報 1934.5.1-1934.8.3(昭和9)には、
海泉寺
駒林神社の北に海泉寺がある、本寺は近年公会堂の所から現位置に移転され本堂は昔駒林大御堂と呼ばれ昔駒林の雑魚寝堂(ざこね堂)を移転したものであってほぼ旧形を存するらしい、昔昔一村男女がざこねした堂であるというのは誤りで仏恩報謝の勤行のため参篭したのを誤り伝えとのことであるとも語られている

Posted by: 信仰と歴史有る町 駒ヶ林の枕寺〔まくらでら〕とサツキ寺 | May 02, 2010 at 07:36 AM

o(*^▽^*)oコメント有り難うございます。
詳しい歴史を知ることが出来ました。

Posted by: 海音 | May 11, 2010 at 11:11 AM

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