« もて期(笑) | Main | 軟弱もの! »

September 25, 2005

源平合戦の道を歩く⑦

 今回も歩いたわけではありません。源平の話も終盤を迎えてきました。大河ドラマの方は佳境に入ってきました。
 今日参加したのは、兵庫区主催の源平のシンポジウムです。タイトルに、虚実と上がった講演会も兼ねていたので、大盛況のようで、200名定員だったのが、場所を変えて300名ほり込んでくれました。大河が放映しているからでもあるのですが、歴史熱の高まっているのかなと感じてしまいます。しかし、いつ見ても老紳士ばかり、たまに老婦人などを見かけるのだが、若年者がいない。私たちが一番若いと堂々と言える(笑)。こんな面白い話なのに、勿体無いなぁと思ってしまいました。帰りに友人T1とケーキを食べながら、なんか知らんけれど、地元の歴史に関心を持つような義務教育をしていないよなぁと話し込んでしまった。
 で、今回、「源平合戦~伝承された闘いの虚実」と題して、行われたことはと言うと、東京の大学の教授が大胆な仮説を聞かせてくれたのだ。最初の兵庫区まちづくりの人の話では、須磨区・兵庫区どっちが逆落としのような話をされていて、「そら、長田区やろ。西の守りやで。」と勝手につっこんでいたのですが・・・。そんな生やさしい話ではなかった(笑)。
 冷房が効きすぎて、すべての体の組織が体を温めるのに必死になっていたから、「眠っちゃいかん!」って状態になりながら聞いていたので、大きく間違っていたら、ごめんちゃいね!

 簡単にまとめてしまうと、源平の生田の森・須磨一ノ谷の闘いは、平家物語や吾妻鏡に記されているのだが、どうもこの地のことをよく分かっていない人物が書いている。これはまた、生田の森の合戦を伝えた源範頼の報告による影響、一ノ谷の闘いを報告した義経の影響と言える。土地が分かっていないのに、闘いに行けるのかと言うことになるのだが、源氏はその土地の有力者に参戦を求めるやり方を常にしており、それによって進軍がしやすくなっていた。
 清盛が福原京を開くときに海までの土地を眺めながら構想を練ったという神社の話は以前に書いたのだが、そこは鵯越から南、今は有馬街道と言われる所の山へのは入り口にある。福原京はそこから南へ東西に広がっている。福原京の守りは六甲山渓が存在するのであるが、六甲山渓を超えたところに、街道があり、それは東西に道が出来、加古川まで続いているのだが、その街道の唯一の南に下る道が鵯越、有馬街道の辺なのだ。清盛は理想郷を求めただけあって、街道から南に下る鵯越までの界隈東は宝塚まであるらしい山田庄という土地を持っていた。もう一つ、加古川のあたりも持っていたらしい。入り込むルートは抑えたと言うことだ。しかし清盛の時代が終わると、対平家の武者たちが便乗して武功をあげようと、源氏軍と組んでいる。資料に「儒林拾要」を出されて東国武士だけではなく、土地勘のある摂津の武士が部隊を編成しているのだ。ここで面白い仮説を唱えられているのだが、重要な多田行綱の名前がその回覧手紙に載っていない。なぜか、それは回覧した人物要するに重要な人物であったから、一ノ谷の闘いから1年後に、多田が源氏に滅ぼされている。なぜか。京都で人気があり、一ノ谷から屋島までの間1年近い間に京に止まっていた義経が、一ノ谷の闘いを話するときに、自分の手柄ではないものも自分の手柄のように触れ回っていたことだろう。で、多田行綱の逆落としのいきさつが義経の話となって伝説化したのではないかという話をされたのだ。
 おぉー、逆落としは義経にあらず!?

 色々異説を唱えることで、その証拠固めで文献を探しまくり、今までの文献も違う方向から見る。それによって、歴史の新たな発見が・・・。異説ほど歴史を楽しくして貰えるものは無いだろう。これがまた定説となっていくのだ。
 今日は面白いことを聞いた。

|

« もて期(笑) | Main | 軟弱もの! »

「歴史」カテゴリの記事

「神戸」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/43685/6119087

Listed below are links to weblogs that reference 源平合戦の道を歩く⑦:

« もて期(笑) | Main | 軟弱もの! »