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November 03, 2005

兵庫の歴史講座

 兵庫といっても、兵庫区。それも兵庫津のお話を聞いてきました。話の中心は、蕪村・大魯・来屯の話。その話を書く前に、今回は別にお話の無かった資料を見ると、2~3万年前に、兵庫区会下山に石器を使った人達がいた。縄文時代の石器は、垂水区の大歳山、西区平野町で出土。灘区の桜ヶ丘で弥生時代の銅鐸が発見され、古墳時代には、務古(武庫)水門と敏馬浦(みぬめうら)の名称が使われていた。灘区に敏馬神社があり、8世紀の伝承を語り継いでいる。兵庫津が神戸の古い港という印象があるが、万葉集にも出てくるこの灘区のHAT神戸の辺りが一番古い神戸の港ということだろう。あまり意識して考えたこがなかったが、大阪は都に近いがなぜ繁栄した港にならなかったかというと、浅瀬であったためらしい。都に近い所で、浅瀬ではなく、先端が出ているところ、そこが目につきやすいということで、敏馬浦や兵庫津が港として利用されたということだろうか。
 そして、古事記・日本書紀に、兵庫区の夢野の名前が出てくる。やっと、8世紀になると大輪田の泊の名が出てくることになる。以前に書いたが、清盛は六甲山渓と瀬戸内海の城壁にはさまれた海の玄関口を兵庫津に選んだのであるが、同じ山裾の敏馬浦をなぜ選ばなかったのか?やはり京都からの街道と結ぶ今でいう有馬街道があったからでしょうか?
 清盛により経ヶ島建設が行われ、大輪田の泊はクローズアップされてきます。一ノ谷合戦のことを記した「吾妻鏡」に初めて兵庫の名が出てきます。前にも書きましたが、兵庫県庁は兵庫区に置かれていました。兵庫という名前が県名にまで使われるぐらいの重要度がこの時代から始まるのです。しかし、平安・鎌倉・室町時代に隆盛を極めたこの港も、応仁の乱で荒廃し、堺に貿易を奪われることになります。その後、秀吉が兵庫を直轄地とした事もありますが、ちょうど震災の400年ほど前に大震災があり全滅したそうです。1596年。1995年、じゃあ次は2395年あたり?
 次に兵庫津の隆盛を担ったのは、上記3名に関係する北風家。江戸時代には廻船問屋として力を付けて、当時の貿易港堺からお客を奪っていきます。
 流通ビジネスの才は昔からこの地域にあったのか、荷主や船頭たちにサービスをしたようです。兵庫津に着いたら、この北風家で食事を頂き、お銚子が1本付いてくる。時化で出られないときには、宿泊も出来ると、サービス向上で荷が集まり、とうとう堺と同じ、幕府の直轄地とされ、米や材木なども扱っていたようです。
 そんな北風家に庇護を受けたか、サービスの勉強をしたのか、全国的には函館じゃないのと思われがちな高田屋嘉平衛が兵庫津に店を構えます。場所は前にも書いた川崎重工の辺りです。
 司馬遼太郎さんの「菜の花の沖」は彼が主人公で、北風家のサービスは船頭たちを見下げたようなサービスと批判的に書かれているそうです。
 やっと、上記3名の話になりますが、ここからが今日聞いた講演の内容なのですが・・・。

 須磨浦公園の瀬戸内海を望む所に蕪村の句碑があります。

春の海 終日(ひねもす) のたりのたりかな

 この展望に相応しい句だと思います。芭蕉から遅れて生まれてきた蕪村は、芭蕉と違ってお金が無く、旅をして句を詠むと言うことも少なかったようです。京都に居を構え、上記の豪商北風家当主に厚遇されて、庇護を受けます。その蕪村の弟子が大魯。それから、北風荘右衛門貞幹の俳号が来屯(きたむろ)といいます。
 俳句塾という形で、北風家に蕪村を呼び、句会を開いた記録があります。
 和田岬駅近くの和田神社は江戸時代までは海の近くにあり、その社務所で句会が開かれたりしたそうです。しかし、三菱に追い出され、今の場所はずいぶんと陸地に入りました。その時の句会の句碑が和田神社でみることが出来ます。
 北風家は明治20年代に没落するそうです。しかし、神戸の港を盛り立ててくれた一族に感謝したいです。ありがとう。

 

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